10月11日は何の日? 柳河藩主・立花鑑備の生誕日

10月11日は立花鑑備(あきのぶ)の生まれた日。
1827年のこの日、「替え玉藩主」となる幼い殿さまが誕生しました。

立花鑑備 画像引用元:Wikipedia

立花家と筑後柳河藩

立花鑑備は筑後国柳河藩の11代藩主です。
戦国時代、豊後の大友宗麟の下で武名を鳴らし、その後に大名として出世して柳河藩主となった立花宗茂(むねしげ)にルーツを持ちます

立花宗茂は豊臣秀吉をして
「本田忠勝と東西を二分する西国無双の男」
と評すほどの勇将でした。

宗茂は柳河を一度領するも、関ヶ原の戦いでの振る舞いで失敗をこき、所領を失い浪人同然になりますが、大坂の陣で功をあげて、再度柳河の藩主に返り咲いたすごい人です。

そして事件が起こるのはそんな宗茂の時代から200年以上も下った、徳川家斉の治世でした。

立花宗茂 出典:立花家資料館

立花家、突如として跡継ぎ不在となる

1830年3月、柳河藩の第9代藩主、立花鑑賢(あきかた)は長男である鑑広(あきひろ)を跡継ぎと定めました。
正式に後継者として指名された鑑広はその2か月後、江戸の柳河藩邸に上京します。

その直後、父・鑑賢が死去し、同年8月に家督を継いで鑑賢は7歳にして立花家の当主となりました。
しかし不幸は続きます、その鑑賢すらこの3年後に病に倒れ、11歳という幼さでこの世を離れるのです。

こうして立花家と柳河藩は突如として後継者を失ってしまいました。
「正式な跡継ぎがいなくなっただけで、他に誰か親族がいるでしょ?」
と現代の感覚からいえば考えてしまいそうですが、なかなかそう簡単にはいかない事情がありました。

江戸時代の大名が跡継ぎを定めるには厳格な決まりがあったのです。
事前に幕府に届け出を出して正当な嫡子として認められたうえ、さらに将軍と謁見する「御目見」を済ませていなければなりません。

状況が変わったからといってホイホイと跡継ぎを変えることは許されませんでした。

ただ、それではあまりに不便なため、立花家のようなケースで使える「末期養子(まつごようし」という救済策が定められていました。

父・立花鑑賢 画像引用元:Wikipedia

末期養子の制度

末期養子は当主が事故や病気で急死した、あるいは跡継ぎを定めるまで余命が持ちそうにない時に、緊急的に養子縁組などして跡継ぎを立てて家名を存続させる制度です。

江戸時代初期、3代将軍・家光の治世までこの末期養子は厳に禁止されていました。
各大名家の有力家臣などが主家の当主を暗殺し、自分に都合のいい幼君を擁立するのを防ぐ目的があったからです。
戦国の気風がまだ残る時代だったからこそ、そんなことが横行しては泰平を揺るがしかねません。

ただ、それすら表向きの建前であり、幕府としての本音は大名の勢力を削り、徳川将軍家の統制を強めた狙いがありました。

末期養子を禁止にすることで多くの大名家で家系断絶が起こり、継嗣不在を理由に61の大名家がおとりつぶしに合っています。

しかしそれが結果として武士の大量失業を招き、おとりつぶしにあった大名家の家臣たちが浪人となって治安が悪化、由井正雪の反乱などを引き起こしてしまいました。
それを憂えた4代将軍・家綱によって末期養子の禁止は緩和され、緊急避難的措置として規定されるに至ります。

苦肉の策、「当主すり替え作戦」

そういうわけで、末期養子の制度を適用して立花家も相応しい人物を跡継ぎに立てればいいわけですが、それも不可能でした。

なぜなら、末期養子を使っていいのは17歳~50歳までの当主に限るのでした。
11歳で夭折した鑑広は該当しなかったのです。

改易を恐れた藩の重役たちは頭を悩ませますが、一計を案じます。
それは鑑広の4歳年下の実弟・鑑備を「鑑広」とすり替えるというものです。

幸いにして兄・鑑広はまだ将軍・徳川家斉への御目見を済ませていません。
まだ幼く、年齢や顔貌も似ていた鑑備ならバレづらいです。
それに鑑広と父母を同じくし、血筋の上でも申し分ありません。

兄・鑑広の急死から三か月後、弟・鑑備は夜陰に紛れて極秘に江戸の柳河藩邸の送り込まれ「立花鑑広」本人としてすり替わり6歳で家督を相続します。

幼名を変え、本名を変え、婚約者すら引き継ぎ、あくまで「立花鑑広」とは同一人物です。
藩は幕府に、鑑広の病は全快したと報告し、8歳の頃(鑑広としては12歳前後)、将軍・家斉に初めての御目見を済ませて従五位下、左近将監に叙されて、名を鑑備と改めるのでした。

隠し通された秘密

その後、鑑備は15歳の頃に江戸から国許に戻っていますが病に臥せり江戸に戻れず、この4年後に亡くなるまで藩政にも加わることなく大人しく暮らします。

子はおらず、親族から養子をもらい受けて跡継ぎと定め、20歳で柳河にて死去しました。

こうして立花家と柳河藩は12代(11代)藩主・鑑寛(あきとも)に受け継がれました。
兄にそっくりそのまますり替わり、その人生を代わりに歩むことで家名を存続させた鑑備

このことは当然、極秘として扱われ、秘密が解かれるのは明治35年になってからになるのでした。

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