12月2日は何の日? 溥儀が清の皇帝に即位した日

12月2日は溥儀(ふぎ)が清の皇帝に即位した日。
1908年のこの日、中華最後の皇帝が玉座につきました。

溥儀 34歳頃 画像引用元:Wikipedia

溥儀ってだれ?

溥儀は清の第12代皇帝です。
フルネームは愛新覚羅溥儀(あいしんかくら ふぎ)といいました。
およそ中国人とは思えない不思議な名前ですが、清が漢民族ではない別の民族によって興された王朝だからです。
溥儀ももちろん漢民族ではありません。

中華最後の王朝、最後の皇帝のためラストエンペラーとも呼ばれます。

溥儀の退位によって紀元前247年に秦の始皇帝が始めた「皇帝」という権威は2150年以上の歴史に幕を下ろすのでした。

始皇帝 画像引用元:Wikipedia

清とはどんな国か

溥儀が治めた清の国は満州人によって建国されました。
17世紀ごろに中国東北部にいた女真族はヌルハチによって統一され、「後金」という国を興します。
歴代の中国の王朝はしばしば異民族の侵入を受けて衰退しましたが、後金もまたそういった漢民族の国を脅かす異民族国家でした。

ヌルハチは満州文字の制定や軍政改革を行うなどして国を富ませました。
また、自分たちの民族名を「女真族」から「満州族」に改めます。
女真というのは中華からの呼び名で侮蔑的な意味が込められていたからです。
そうして遂に時の王朝・明から独立を果たすほどになるのでした。

後金2代目の皇帝であるホンタイジの時に国号を「清」へと改め、その子のフリンの代で北京に迫り、中華の支配を始めるに至ります。

溥儀はそうした満州人の皇帝の子孫なわけです。

なお、ヌルハチは満州人のアイシンギョロ氏の出身です。
アイシンギョロを漢字に転写して「愛新覚羅」。
溥儀の特徴的な名前にはこんなルーツがあるのでした。

ヌルハチ 画像引用元:Wikipedia

溥儀の出生

溥儀が生まれた清の末期の頃、朝廷はカオス状態でした。
第9代皇帝・咸豊帝の側室である西太后が専横の限りを尽くしていたからです。

西太后 画像引用元:Wikipedia

また、国際的にも、西欧列強がアジアでの植民地支配を進めており、日本の台頭で圧迫されるなど、清を取り巻く環境は厳しいものでした。
国内においても義和団事件の勃発や、あいつぐ皇帝の早世など、混乱の度は一層強まっています。

西太后はそんな中で衰退にむかいつつある清を維持しました。
しかし一方でいいなりにできる幼帝ばかりを擁立するなど、自らの権力維持にのみに固執した面もあります。

先帝である第11代・光緒帝も、先々帝である第10代・同治帝も、西太后の傀儡であり、実権は無きに等しいものでした。

ただ、そんな女傑も72歳でこの世を去ります。
溥儀は西太后の死後、彼女の指名によって清の第12代皇帝として即位するのです。
即位した時、溥儀はまだわずか2歳の幼帝でした。

即位の翌年、3歳の溥儀(写真右の幼児)。なお左の男性は父、幼児は弟。 画像引用元:Wikipedia

翻弄される人生

こうしてなにも分からぬまま皇帝に即位した溥儀でしたが、激動の時代が彼を翻弄します。

即位後、たった3年で革命が起こり、清王朝は倒されてしまいました
この革命は辛亥革命と呼ばれます。
君主制の清は打倒され、新たに共和制の「中華民国」として生まれ変わりました。
当然、溥儀も皇帝からの退位を余儀なくされます

「大清皇帝」という尊号を保持して、特権身分として紫禁城に住み続けることは許されたものの、政治の実権は失ってしまいました。

退位から5年後、帝政復古を願うかつての忠臣の働きによって、再度皇帝に即位しますが、それも13日で頓挫して権力の維持は叶いませんでした。

さらに、中国国内では武力による統一を目指す勢力同士の戦いは熾烈を極めていました。
かつて保障されていた特権も反故にされ、溥儀は紫禁城から追われます

安全を求めて、身柄の受け入れを求めてイギリスやオランダにはたらきかけますが、どちらも返答はノー。
その次に声をかけた日本の庇護を受けることになり、溥儀は中国内にある日本の租借地である天津に移りました。

天津では戦乱から離れた穏やかな生活を送ります。
しかし混迷を深める国際情勢は彼の安寧を許してくれませんでした。

日本の傀儡国家である満州国の皇帝に据えられることとなりますが、それはまた別のお話。

26歳頃、満州国皇帝に即位する溥儀 画像引用元:Wikipedia

人柄

君主としての清国皇帝から退位し、紫禁城で生活していた頃、西洋文化の教育を受けました。
中国語の堪能だったイギリス人、レジナルド・ジョンストンを家庭教師に迎えて教えを受けるのです。

洋服、自動車、電話などに触れて、西洋式の暮らしや思想に影響を受けます
満州人の伝統的な髪形である辮髪(べんぱつ)を「洋服に似合わないから」と言って切る程に大きなものとなったようです。
旧態依然としたものにこだわらず、先進的な性格だったかと思われるエピソードですね。

辮髪をしている清の若者。早い話がラーメンマンの髪型。 画像引用元:Wikipedia

また、そんな溥儀をジョンストンは

・人間味のある活発な少年

・高い知性と鋭いユーモアのセンスの持ち主

・礼儀正しく高慢さとは無縁であり、幼少から皇帝として宮殿で過ごしているとは思えないほど

以上のように評しています。

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