10月13日は何の日? 菅野直の生誕日

10月13日は菅野直(かんの なおし)の生まれた日。
1921年のこの日、後に「デストロイヤー」、「ブルドッグ」の異名を取る帝国海軍の猛将が生まれました。

菅野直 画像引用元:Wikipedia

菅野直とは

菅野直は第二次世界大戦で日本海軍の戦闘機乗りとして活躍した軍人です。
零戦、紫電改を駆り、もっぱら米軍の大型爆撃機(B-24等)の迎撃に従事しました。

勇猛果敢、闘魂、豪胆、それらの言葉がぴったりな敢闘精神にあふれた軍人で腕前も抜群。
個人撃墜48機、共同撃墜24機、合計72機撃墜を叩き出した日本を代表するエースパイロットです。

菅野の愛機だった紫電改 画像引用元:Wikipedia

激しさと優しさの両面を備える男

菅野の気性の激しさは幼い頃からのものでした。
喧嘩も気も強いガキ大将、猛犬に襲われて格闘となってナイフで刺し殺したという逸話もあるほどです。

しかし兄と姉を慕い、兄とは兄弟喧嘩もなく、姉とは13歳頃まで添い寝することもありました。
夜中遅くまで勉強に励み、成績はいつもトップ、中学校には首席で入学します。

そんな菅野なので、彼の評判は人によってがらっと変わるのです。

「奇抜で、喧嘩が強くて、素行が良くない」

「どちらかといえば文学少年といった印象だなぁ」

と一見すると相反するような評価が語られます。
ただ、事実として菅野は豪快な少年でありながら、短歌や文学にのめりこむ文学少年でもあったのです。

しかし、彼は少年の頃から同級生や下級生からの人気は絶大であったというのは間違いないようです。

軍人の道へ進み才能を開花

17歳で菅野は軍人の道を志します。
菅野は成績優秀でした、そして彼の兄である巌もまた優等生でした。
大学へ進学したい気持ちもありましたが、経済的な事情から二人ともは進学できず、敬愛する兄に譲る形で自身は軍人として生きていこうと決めるのです。

海軍兵学校に合格、20歳で卒業し、翌年に少尉として任官、戦闘機乗りとしての専門教育を受けるために大分で飛行学生時代を送ります。

学校での教官たちは皆ベテラン揃い、飛行学生たちなど模擬戦でのドッグファイト(飛行機での後方の取り合い)でいともたやすく後ろを取られてしまいます。

しかし菅野はひとあじ違いました。
菅野は教官の乗機に衝突するのではないかというくらいに突っ込み、相手が動きをゆるめた隙に後ろを取るという戦術を編み出します。
このような一歩間違えれば危険な行動で、成果を上げるのは彼の常でした。

ただ、訓練のところどころでこのような無茶をするので、壊した乗機は数知れず「菅野デストロイヤー」の異名を取りました。

菅野が2、3機は壊したという九六艦戦 画像引用元:Wikipedia

戦闘機乗りとして正式配属、編み出した「必殺技」

22歳の頃、正式に厚木に赴任、翌年には第343海軍航空隊の分隊長を拝命して南洋諸島に進出しました。

菅野の部隊はパラオでもっぱら大型重爆撃機を迎撃する任務に就きます。
相手とするのは米軍のB-24であり、やっかいな敵です。

一般的に重爆撃機は図体が大きく、堅牢で、しかも自軍の戦闘機の援護を受けています。
B-24も例外ではなく、真正面からまともぶつかるのはまずいのです。

そこで菅野が編み出した爆撃機殺しの必殺技が「前上方背面垂直攻撃」とも呼べる戦法でした。
これは爆撃機の前方の上空、1000m以上もの高さから機首を地面に切り返して、さながら落下するように真っ逆さまに爆撃機に接近して打ち掛かるというものです。

この戦法は敵爆撃機を援護している戦闘機の死角となる直上からの攻撃を可能とするものでしたが、一歩間違えれば敵機と衝突する危険な戦法。
極めて高い反射神経と精神力が求められました

この戦い方を駆使して菅野は何機も爆撃機を撃墜して有効性を証明。
彼の愛機には黄色のストライプマークがついていたため「イエローファイター」とのあだ名をつけられ米兵から大変恐れられました

「前上方背面垂直攻撃」は他の部隊にも教えられ、そこでも戦果を挙げるのでした。

B-24  画像引用元:Wikipedia

終戦目前の戦いで未帰還に

そんな戦いずくめの日々でしたが、日本軍の戦況はどんどん追い込まれていきます。
南洋諸島は次々に失陥してついに日本本土にまで空襲が始まりました。

1945年の8月1日、菅野23歳の頃、九州に向けて北上中のB-24を迎撃する紫電改の部隊20数機の隊長として出撃します。

しかしこの時、菅野の乗機にトラブルが発生
紫電改の主翼の中に入っている機関銃が爆発して翼に大きな穴が空いたのです。

「ワレ、機銃筒内爆発ス。ワレ、菅野一番」
とトラブルを報告する無線を僚機の堀光雄に送ります。

堀はすぐさま菅野の乗機に近づき、彼の援護に回ろうとしますが、菅野は再三にわたって自分を置いて攻撃に参加しろと堀に指示します。

堀はなんとか助けられないかとその場に留まり続けますが、怒りの形相の菅野がコクピット内で拳を突き出したのを見て、やむなく戦闘に戻りました。
その瞬間に表情が和らぐ菅野をたしかに見ましたが、それが堀の見た菅野の最期でした。

戦闘を終えて「空戦ヤメアツマレ」と菅野からの入電を受けた部隊は、彼がいるはずの空域に集まるもその姿はなく、必死の捜索を行いますが見つけられず、菅野は結局この戦闘で未帰還となってしまいました。

行方不明のまま終戦を迎え、上官である源田実の働きかけもあり、菅野は戦死扱いで二階級特進して中佐に。
最終戦績は個人撃墜48機、共同撃墜24機。

どんなに階級が高くても気に入らない上官には食って掛かり、しかしそれでいて部下は殴ったことも怒ったこともないという話もある菅野。
その腕前から上官から一目置かれ、部下からは絶大の信頼を置かれた菅野のその後は今もって謎のままなのです。

紫電改三 試作機 画像引用元:Wikipedia

逸話


兵舎などで部下と騒いで「やかましい!」と怒られること数知れず。
ある時、やかましいと文句を言ってきた部屋に逆に怒鳴り込むとそこには少将はじめ並み居る佐官の姿が。
そうとうやべー状況だが菅野はいっさい恐れずテーブルの料理を蹴散らして座り込みをきめる始末。
さすがに少将の方が根負けして「もういいだろ帰れよ」とたしなめられたので帰った。
なお、お咎めなし。

完全に輩のふるまいだが、菅野は明日をも知れない部下の憩いの時間を邪魔されるのを大変嫌った


口やかましい上官を嫌い、気に入らなければ上官とも思わない態度を取るが、寛容な態度で接した源田実には心服しておりオヤジと呼んで慕っていた。
菅野がのびのびと戦果を挙げられたのは大体この人のおかげ。

上記①の乱暴狼藉が許されたのも多分この人のおかげ。


同僚と連れ立って規則違反の無断外出をして温泉に出かけた時のこと、上官である源田実と偶然鉢合わせる。
この時ばかりはさすがの菅野も委縮した。

なお源田は笑って許し、お咎めなし


フィリピン近縁を転戦していた時期のこと、あわや殉職と言うピンチを切り抜けルバング島に不時着。
ここで原住民に「俺はニッポンのプリンス、カンノだぞ!」とふかしこいて原住民からの敬愛を集めた。

数日後、救援が訪れた時にはそこにはまるで現地の王様のように過ごしている菅野の姿が。

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