10月3日はジョン・ゴリーが生まれた日。
1802年のこの日、初めて実用的な製氷機を作った発明家が誕生しました。
医師にして実業家、ゴリー
ジョン・ゴリーはアメリカ人の実業家です。
スコットランド人の両親のもとに生まれ、サウスカロライナで幼少期を過ごした後に、31歳でフロリダ州の港湾都市・アパラチコラに移り住みます。
ここでゴリーは医師として勤める傍ら、市議会議員、郵便局長、銀行の支店長としても働き、絵に描いたようなエリートです。
医師としてはマラリヤや黄熱病患者の治療の研究を専門としていました。
ただ、まだこれらの病の原因が突き止められていない当時(野口英世の誕生の約40年ほど前)、ゴリーは高温多湿の悪い空気が病気を悪化させるのだと考えました。
もちろんこれは間違った見解ではあるのですが、彼は氷を詰め込んだ鍋を天井から吊るし、冷気を患者に当てることで治療しようと試みます。
当時の氷は非常に高価
しかしここで氷の安定供給が難しいという問題にぶち当たります。
この時代まだ実用的な製氷機は存在しません(ゴリー自身が発明するのだから当たり前!)。
氷を手に入れるには北部の凍った湖や川から切り出して氷室に保存してあるものを購入する以外に方法は皆無。
アメリカ南東部の最果てにあるフロリダで氷を購入すると非常に高くつきました。
保存するのにも運搬する(専用の船がありました)のにも手間と労力と莫大な費用がかかるため、これは仕方のないことです。
そこでゴリーは自分で人工的な氷を作ってしまおうと考えるのでした。
冷凍冷蔵技術はすでに1740年代に先行研究がありました。
スコットランドの科学者であるウィリアム・カレンが、ジエチルエーテルを沸騰させた気化熱で密閉管の周囲にごく僅かな氷を作る技術を確立し、その端緒となっています。
1805年にはアメリカ人のオリバー・エバンスが気化した硫化酸を使って氷を得る製氷機を設計し、そのコンセプトを応用する形でジェイコブ・パーキンスによってコンプレッサ式製氷機が作られています。
ゴリーはこのエバンスの技術を研究し1840年頃に遂に実用的な製氷機の発明に成功するのです。
売り込みをかけた大々的なパフォーマンスを敢行、しかし……
こうして努力が結実して生み出された夢のような道具、製氷機。
ゴリーはこれをビジネスとして成功させようと販促活動を行います。
目を付けたのがフランス領事館が主催する「パリ祭」のパーティーでした。
パリ祭とは、フランス革命をめぐる一連の闘争の一発目を飾った「バスティーユ牢獄襲撃」の日を記念した催しです。
この記念すべき日は7月14日、そう、真夏も真夏、暑い盛りの真っ最中。
ゴリーはもったいつけたスピーチをした後、参列者があっと驚くものを振る舞います。
冷えたワインです、しかも、氷のぎっしりつまった器で冷やされたスパークリングワイン。
暑いフロリダの夏にキンキンに冷えたスパークリングワインを飲み干せるなんて、冷凍庫の無い当時、どれだけ贅沢な体験だったでしょうか。
つかみはばっちり、財界人にもしっかりアピールできたことは間違いなし!
しかし残念なことに、ゴリーの目論見は失敗に終わってしまいます。
立ちはだかった「既得権益」
氷が非常に高価なものだったというのは既に述べました。
氷は保管するのにも運搬するのにも専用の設備が必要です。
つまりこれを持っている資本家にとってみればものすごく太い商売でした。
高価で売れて、しかも参入障壁が高い。
みすみす手放すことなどできない代物です。
ゴリーの発明は、すでに存在していた天然氷塊の流通・販売業界から猛烈な反発を生み、製氷機に対するネガティブキャンペーンを打たれました。
業界から金を握らされたマスコミによって「製氷機は効率が悪くて水漏れするガラクタ」と宣伝されます。
しかもタイミング悪くビジネスの共同経営者が死亡してしまい、それが決定打となって彼の事業は失敗に終わるのでした。
ゴリーはその後、批判に苦しめられて健康を損ない、貧困の中50代前半でこの世を去ることになります。
ゴリーの死から10年も経たず、フランスのフェルディナン・カレーによって新しい仕組みの製氷機が作られ、それが普及機として民間に受け入れられていきました。
そして1861年から起こる南北戦争によって北部から氷を調達できなくなった南部の人々の間で冷蔵庫の需要は広がっていったというのはなんとも皮肉な話です。