10月7日は伊達家9代目当主・伊達政宗がこの世を去った日。
1405年のこの日、伊達家中興の祖が生涯を終えました。
独眼竜の先祖、伊達家中興の祖
伊達政宗といっても、戦国時代に活躍し、仙台藩の初代藩主となった、いわゆる「独眼竜」の政宗ではありません。
有名な戦国の政宗は伊達家17代目当主ですが、今回取り上げるのは9代目当主の伊達政宗です。
この政宗は伊達家中興の祖とされる人物で、子孫たちからの崇敬を集めます。
有名な戦国の方の政宗は幼い頃は内気な少年でしたが、その将器を見込んだ父・輝宗がこの偉大なる先祖の名からあやかって「政宗」と名付けたのです。
輝宗が息子にかけた期待の大きさが分かる逸話でしょう。
なお後世、9代目と17代目の二人の政宗を区別するため、前者を大膳大夫政宗、後者を藤次郎政宗と呼んで区別します。
政宗の偉業、出羽侵攻
大膳大夫政宗の最初の偉業が出羽に侵攻したことです。
父・宗遠と共に出羽国の置賜郡に出征します。
この置賜は大江氏の惣領として繁栄し、守護職、地頭職、幕府要職を代々輩出した名門の長井氏が治めていました。
伊達の所領・伊達郡と隣接したここを手に入れ版図拡大を狙っての出陣だったわけです。
室町幕府の出先機関たる鎌倉府は、この政宗の侵攻を防ぐよう近隣の豪族に命じるなど長井氏に味方しました。
救援を受けて長井氏は政宗を退けることに一応は成功します。
しかしその後も政宗は執拗な攻撃を続け、遂に本拠地である長井荘を攻め落とすのです。
長井氏はこれをきっかけに衰退し、政宗は置賜を得るのでした。
政宗32歳の出来事です。
置賜はその後の長きに渡って伊達氏の本拠地となる米沢が含まれており、伊達の家門にとって大いに意義のある勝利となるのです。
この米沢は約200年後に藤次郎政宗が豊臣秀吉の命令で移封されるまで伊達の所領であり続けました。
鎌倉府に反乱、戦いの連続
こうして所領を拡大して15年後のこと、鎌倉府の足利満兼が領土割譲を求めてきました。
恐らく拡大した所領の統治も安定しきていた頃でもあるでしょう、政宗はこれを拒否して反乱を起こします。
満兼は弟の満貞、満直を東北に派遣しており、これに反発した大崎詮持と政宗は結び、鎌倉方の結城氏や上杉氏との戦いが展開されます。
しかし戦いの中で詮持は結城氏に攻められ惨敗し自刃に追い込まれ、政宗の方も上杉氏との戦いで思わしい戦果を挙げられず、苅田城に籠城をきめこみました。
ここでさらに追い打ちで最上氏をはじめとする出羽の領主たちが苅田城を包囲したため、仕方なく政宗は降伏するのでした。
それでも政宗は再起を諦めずに再度反乱を起こしますが、この時すでに50歳を超えておりなかなかの高齢。
よる年波には勝てず、1405年に高畑城で52年の生涯を終えるのでした。
ただ政宗は所領拡大を成功させ米沢を得たこと、鎌倉府との戦いで武名を挙げたことで子孫たちからは中興の祖として称えられます。
そうして戦国時代の子孫で雲孫たる藤次郎政宗にその名が受け継がれていくのです。