10月8日は江戸幕府に御庭番が設立された日。
1716年のこの日、徳川将軍直属の諜報機関が創設されました。
御庭番とは
御庭番は江戸幕府8代将軍の徳川吉宗によって設けられた役職です。
大奥に務める男性職員・広敷役人のひとつで、江戸城本丸の庭に詰め所があることから御庭番と名づけられました。
その役割は奥の間の清掃や警備ですが、それは表向きの仕事。
本当は将軍直々の命令を受けて動く隠密でした。
御側御用取次や、時として将軍から直接密命を受けて活動しました。
御庭番は格で言えばそこまで高い身分ではなく、本来であれば御目見以下の御家人(俸禄一万石以下で、将軍が出席するイベントには参加できない)の場合がほとんどです。
しかし職務内容上、例外的に将軍と直に会うことができ、望外の出世も不可能ではない役職でした。
御庭番の仕事内容
さて、御庭番といえばしばしば、忍術や戦闘に長けた忍の一族というようなイメージで語られる場合があります。
ただ、それは後世の創作の影響が強く事実とは少し異なっていると言わざるを得ないでしょう。
彼らはもっぱら大名や幕臣、江戸市中で異常が有った場合に将軍に報告する任務を行っていました。
また、場合によっては遠方まで出張って情報収集を行うこともあったようです。
そうして集めた情報をつぶさに将軍に報告するのが彼らの主たる仕事です。
諜報、密偵、隠密、間者のようなイメージよりはちょっとマイルドかもしれませんが、極めて大切な役割であるのには間違いないでしょう。
洋の東西を問わず、腐敗した官僚機構のために権力の最高位にいる者に正確な情報が入らず国が衰退する例は枚挙に暇がありません。
御庭番がもたらしてくれるものは将軍にとっては貴重な、直通の情報だったわけです。
したがって御庭番は忍集団というよりは監察官というイメージの方が実態に近いかも知れませんね。
実際、遠方に出かける「遠国御用」の任務は完全にサラリーマンの出張と同じです。
命令を受けたら、御庭番の古老や先輩たちに相談して調査内容や旅程を決め、帰ってきたら数日かけて報告書を作成、この報告書を先輩たちに確認で見てもらってから将軍に届けられます。
また、諜報部員でありながら、彼らの氏素性や住所や経歴、果ては収入まで名簿に記されていました。
この名簿は町人たちすら見ることのできるオープンな情報です。
やはり影に生きる忍集団という感じではなかったようですね。
なぜ御庭番は作られたのか
江戸時代よりも昔、戦国時代においても諜報は大切なものだと目されていました。
関東の北条氏は風魔一族という忍集団を擁していましたし、徳川家康の家臣の服部半蔵も伊賀の忍者と関係の深い人物でした。
大名たちは忍を活用して(当時は乱波とか素波とか呼びました)乱世を渡り歩いていたわけです。
江戸幕府も当初、伊賀者や甲賀者を起用していましたが、太平の世で需要が激減した忍達の生活スタイルは様変わりし、間者としてのノウハウや実力は失われていました。
また、設立者である徳川吉宗は徳川家の傍流から将軍になった男です。
7代将軍の家継が夭折したことで秀忠から続く宗家の血は絶え、紀州藩主であった吉宗が次期将軍に推されて就任しました。
つまり吉宗は徳川宗家ではなく、ある意味よそ者です。
そんな彼が本当に信頼をよせる者を自らの側近くに置いておきたかったと考えるのも不思議ではありませんね。
さらに、幕府の正式な監察官である大目付がもはや伝令を主な職務とする儀礼官となり果てて将軍がコントロールできる監察機構が形骸化していたのも理由として大きいです。
どんな人が御庭番となったか
吉宗は将軍になる前の紀州藩主時代から諜報部隊を抱えていました。
薬込役という名前の役人たちで、職務内容は御庭番とほぼ同じです。
表向きの仕事がありつつ、本当の任務は諜報でした。
薬込役は紀州の根来衆に起源を持ちます。
根来衆は僧兵集団でしたが、鉄砲撃ちでもあり、また忍者でもあったそうで、もっぱら傭兵として戦国時代は活動しました。
吉宗は数十人いた薬込役の一部を江戸に連れてきて御庭番に任命します。
輪番制で江戸についてきた者を任命したので、特に選抜の意図はなかったようですが、結果として以下の17名が御庭番となります。
- 川村弥五左衛門
- 宮地六右衛門
- 薮田定八
- 明楽樫右衛門
- 西村庄左衛門
- 馬場瀧右衛門
- 中村万五郎
- 野尻七郎兵衛
- 村垣吉平
- 古坂興吉
- 高橋與右衛門
- 倉地文左衛門
- 梶野太左衛門
- 和多田孫市
- 林惣七郎
- 吉川安之右衛門
- 川村新六
この17名の子孫たちが世襲で御庭番を襲名しました。
17の家門が時代を経て、分家の9家が生まれて最大で26家を数えましたが、幕末の頃には22家が残ったそうです。
御庭番を拝命するにあたって、「親兄弟といえども、任務の秘密は決して洩らさない」という誓紙を提出するのが慣例でしたが、実際にはこの御庭番の血筋の者たちの団結と結束は強く、相談や協力をしながら任務に邁進したとされます。
こうした血筋の継承を代々続け、また長老たちの指導のもと任務を行ったという点は忍者らしさを感じさせるものがあります。
実は忍としての闇の仕事は歴史の彼方に抹消され、表向きの仕事の成果だけが後世に伝承されているのでは?と妄想するととてもロマンがありますよね。