11月25日は何の日? カール・ベンツの生誕日 

11月25日はカール・ベンツの生まれた日。
1844年のこの日、自動車の歴史を作った偉人に名を連ねる偉大な技術者が誕生しました。

カール・ベンツ 画像引用元:Wikipedia

カール・ベンツって誰

カール・ベンツは実業家にしてエンジンや自動車製造の技術者です。
実用的なガソリン自動車を作る研究をしていました。
こんにち高級車で「ベンツ」といえば有名ですが、そのメルセデス・ベンツ社の基礎を築きました

前半生、エンジニアとなるまで

カール・ベンツはドイツ南西部の都市(現在のカールスルーエ)で機関車運転士の父・ヨハンと、母・ヨゼフィーネの間に生まれました。

カールが2歳の頃、鉄道事故で父が突然他界してしまいます。
貧しい暮らしを強いられますが、息子に良い教育を受けさせたいと願った母の努力によって、カールは地元の学校に通えていました。

母の期待に応え、神童と呼ばれる程に成績が抜群だったカール。
わずか9歳にして工学に興味を持ちます。

そして15歳で大学の機械工学科に進学をしました。
機械工学やエンジンについての研究する日々を送ります。
この頃に、現在で言う所のいわゆる自動車の構想を抱いたといいます。

大学卒業後は工学の知識を活かし天秤はかり製造、建設業、鋳鉄製造など、様々な工場と転々としました。

この日々で技術者としての腕は磨けましたが、どこもしっくりこず、くすぶる日々を送るのです。

母校・カールスルーエ大学 画像引用元:Wikipedia

経営者としてのキャリアがスタート

27歳の時、マンハイムにて友人のアウグスト・リッターと共同で機械工場を立ち上げます

ただ、このリッターという男は金持ちではあるのですが、信用のおける人間ではありませんでした。
おまけに、当時のドイツは普仏戦争(ドイツ統一を目指すプロイセンと、阻止したいフランスとの戦争)の影響で経済的打撃をうけていたのもあり不況でした。

うさんくさい共同経営者と不況のダブルパンチで早々に経営はいきづまりました。
立ち上げから約1年、カールの婚約者であるベルタ・リンガーの持参金リッターの持ち株を全て買い取り追い出しに成功します。

カールとベルタの共同経営で機械工場は自動車工場として再起します。
しかしこれも、経済的な問題を解決できず39歳の頃に経営権を手放しました。

経営者としてのスタートは成功をみることなく終わります。
しかしこの間ベルタと結婚して子宝に恵まれます。
そしてなによりエンジンの研究開発を進め、2サイクルエンジンの特許を取得できたこともカールには大きな財産となるのでした。

29歳頃のカール 画像引用元:Wikipedia

自動車工場にリベンジ

最初に創業した会社を手放したのと同じ年、これまた同じくマンハイムの地でエンジン製造工場を創業します。
自転車修理業のマックス・ローゼと、フリードリヒ・ヴィルヘルム・エスリンガーとカールの3人でのスタートとなりました。
この会社はベンツ&ライン川ガスエンジン工場(以後ベンツ社)と名づけられます。

ベンツ社は経営に成功して順調に成長。
始めて経済的にゆとりのできたカールはかつて構想した自動車の設計をしようと思い立ちます。

そして41歳の頃、三輪・金属製の車輪・お手製の4サイクルエンジンを搭載した自走する車が完成しました。
これまでの馬車とは全く違う作りのこの車は「ベンツ・パテント・モートルワーゲン」と命名されます。

この車は最初から自力走行するのを前提に作った世界初の車となり、特許の取得も認められました

その後「ベンツ・パテント・モートルワーゲン」は改良を加えてパリ万博にて発表の機会を得ます。
自動車の価値が知られるようになり、ベンツの会社は急成長するのです。

発明した「ベンツ・パテント・モートルワーゲン」 画像引用元:Wikipedia

発展するベンツ社とその後

ベンツ社は自動車だけでなく、エンジン製造でも躍進します。
取り扱っていた据置型のエンジンは需要の大きいもので、工場は急拡大しました。

カールが45歳の頃には50人程度だった従業員は、10年間で450人もなっていました。
外部から取締役を招くなど、ベンツ社は名実共に大企業としての成長を遂げます。

レース用の自動車「ヴェロ」、安価な大量生産車「ヴィクトリア」、史上初の貨物用自動車など、大企業の開発力を武器に自動車産業を発展させていきました。

レース用車「ヴェロ」 画像引用元:Wikipedia
大量生産車「ヴィクトリア」 乗っているのはベンツ夫妻 画像引用元:Wikipedia

同じくドイツの自動車メーカー・ダイムラー社との競争もエンジン技術の発展に大きく寄与します。

エンジン製造業としての再スタートから20年、59歳になったカールは設計部門からは手を引きますが、取締役としては残り続けます。

折しも世界情勢は第一次世界大戦が終わった頃で、ドイツは敗戦によって天文学的な額の賠償金を背負わされ、急激なインフレに見舞われます。
それは「札束が紙くず同然」と言われるほどの極端なものでした

ベンツ社はダイムラー社と様々な部門を共通化して合理的経営を行うこととし合併。
ここにダイムラー・ベンツ社が誕生するのです。

販売する車のブランド名はメルセデス・ベンツで統一し、現在良く知られるベンツのシンボルマークが生まれたのもこの頃です。

この後、85歳で気管支炎をこじらせてカールはこの世を去るのですが、最後まで取締役として会社を見守り続けたのでした。

余談


せっかく世界初の車を作ったのにカールは自動車の売り方が分からなかった。
そこで妻・ベルタはカールに無断で「ベンツ・パテント・モートルワーゲン」を拝借し、息子二人と一緒に100km離れた実家へとドライブを強行。
婦人と少年二人が連れ立った旅は衆目を集め、「自動車とは何ができるか」を示した。
「自動車」を売るのではなく「自動車のある生活」を売るというマーケティングの好例。


ベンツ社が躍進するなか、カールはそれとは別に完全な家族経営の自動車製造会社を設立する。
経営者はカール、妻・ベルタ、長男のオイゲン。
350台ほど車を製造した。
カール自身が2台ほど車を作らせたが、販売用ではなく個人で使う用のものだった。

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