11月29日は伊達輝宗が没した日。
1585年のこの日、敵もろとも味方の射撃撃たれ、一人の大名が生涯を終えました。
伊達輝宗って誰?
伊達輝宗(だて てるむね)は東北の戦国大名、伊達家の16代目当主です。
誰あろう、独眼竜・伊達政宗(まさむね)の父でもあります。
先代が起こした伊達家の内紛による混乱をまとめ上げ、子である政宗にバトンタッチしました。
輝宗が生まれた頃の伊達家
輝宗は伊達家の混乱期に生を受け、家督を継いだと同時に浮足立つ自勢力をまとめあげる必要に迫られました。
先代である15代目当主・伊達晴宗(はるむね)の次男として生を受けます。
そのさらに先代である祖父、14代目当主・伊達稙宗(たねむね)は偉大な人でした。
近隣諸侯に自分の子女を大勢、養子や婚姻で送り込み、勢力に取り入れました。
その結果、多くの諸侯を服属させ伊達家を急成長させます。
陸奥守護職を拝命する異例の出世を遂げ、奥羽に覇を唱えるのです。
しかし、まだまだ拡大を狙う稙宗の方針と、息子・晴宗は意見が対立ます。
対立はいつしか「天文の乱」と呼ばれる武力衝突にまで発展しました。
最終的に二人は和睦に至り、晴宗が家督を継ぐことで一応の終息はします。
ただ、この騒乱をきっかけにして配下の諸侯の多くが独立してしまうのです。
一部は大名クラスの勢力を誇るまでに成長する家門もあり、伊達家の勢力は大きく衰退します。
輝宗はそんな世相の中で生を受けました。
そして伊達家当主として、その中で渡り合うことを強いられたわけです。
輝宗の治世
混乱する伊達家を引き継ぎましたが輝宗はこれを良く治め、在りし日の栄光まで近づけることに成功します。
21歳の頃、父から家督を譲られて輝宗は当主の座につきます。
引き続き米沢城を本拠地とし勢力を構えました。
しかしながら、家督は継いだものの、依然として実権は父・晴宗と、有力家臣に握られており、輝宗としてはやりづらい感じです。
そこで輝宗は、近隣諸侯の蘆名氏と和睦を結びます。
蘆名氏は天文の乱で独立した、配下だった諸侯の一つです。
独立後は急成長して、伊達家に並ぶ勢力にまで成長していました。
こうして後顧の憂いを断って、伊達家の有力家臣で輝宗に従わない中野宗時・牧野久仲の親子を粛清します。
家中の権力を一手に握って、ようやく輝宗自身のかじ取りをスタートさせるのです。
大勢力である蘆名氏とは争わないようにしながら、争いの絶えない奥羽の諸侯たちの紛争の調停に廻り、影響力を強めます。
一方で畿内の織田信長、福井の柴田勝家(織田の家臣ですが)、関東の北条氏政とも書簡や贈り物を送って親交を温めました。
輝宗は外交上手で、上手く戦国乱世を立ち回ります。
方や、越後に対しては野心をちらつかせ上杉勢力にちょっかいをかけました。
上杉謙信亡き後のお家騒動である御館の乱(おたてのらん)に積極的に介入。
上杉景虎に協力して、対する上杉景勝を妨害しました。
輝宗の越後への野望はこの後も続きます。
所は変わって陸奥の相馬氏とも長年戦をしていました。
戦上手だった相馬氏には苦戦させられるも、要衝であった丸森城の陥落に成功。
丸森城陥落をきっかけにして、伊具郡全域の奪取に成功するのです。
これによって祖父・稙宗の全盛期だったころの旧領のほとんど全ての奪回を成し遂げ、南奥羽の雄に返り咲きます。
輝宗は齢40歳を迎えていました。
この同年、息子・政宗に家督を譲り、自らは一線からは退きます。
輝宗と政宗
輝宗は我が子に才気を見出し、大いに期待をかけました。
輝宗23歳の頃、長男・梵天丸が誕生します。
期待の男子ではありましたが、梵天丸は内向的でやや暗い子供だったそうです。
まだ幼い頃に天然痘にかかって生死をさまよい、なんとか生還したものの右目が白く濁り醜く潰れてしまったのも原因でしょうか。
そんな梵天丸でしたが、輝宗は息子の将器を確信し、一流の教育を施してその将来に期待をかけます。
そして梵天丸が元服する際に「政宗」の名を送りました。
「政宗」というのは伊達家9代当主にして、中興の祖として崇敬を集める伊達政宗からあやかったものです。
梵天丸はあまりの恐れ多さに一度は固辞しますが、輝宗が強いて命じるので、「政宗」の名をもらい受けました。
輝宗の政宗にかけた期待の大きさがわかるエピソードです。
10月7日 初代・伊達政宗の忌日
政宗の治世と輝宗の最期
政宗の急激な方針転換はこれまでの勢力間の均衡を崩し、輝宗は犠牲になる形で命を落とします。
政宗に国政を任せ、自分は越後への介入に集中しようとしました。
しかしその矢先、政宗が上杉景勝と講和してしまいます。
周辺勢力と協力して上杉攻めをしようかと画策していたのに、ご破算になってしまいました。
さらに悪いことに長年同盟を続けていた蘆名氏との連携も破綻します。
伊達家が上杉と単独講和を結んだことが疑念を生んだためです。
近隣勢力の力関係が変わってきていることも原因の一つでした。
こうして政宗はこれまでの方針とは改め、蘆名氏との小競り合いを始めてしまいました。
その中で、蘆名氏の配下であり、伊達のいう事を聞かない大内定綱という諸侯を攻めます。
さらに定綱の姻戚関係にある畠山義継にも攻撃を加えるのです。
義継は政宗に降伏しますが、わずかな土地を残してほとんどの領地を召し上げられる大きすぎる制裁を食らってしまいます。
このため、義継は強く政宗を恨むのでした。
そんな義継が、降伏調停の礼がしたいといい、輝宗の居城である宮森城を訪れます。
二人の会談はつつがなく済み、帰る義継を輝宗がお見送りしようと玄関に立つや、義継はじめ畠山勢は武器をつきつけ脅し、輝宗をさらってしまいました。
輝宗配下である伊達成実と留守政景は兵を率いて、これを追いかけます。
領地に向かって一目散に走る畠山勢でしたが、阿武隈川の河畔で伊達勢に追いつかれてしまいました。
しかし、輝宗を人質にされているため、伊達勢は手出しができません。
そんな中、輝宗は叫びます
「かまうな!俺ごと撃つんだ!」
先代当主のこの言葉を聞いて、伊達勢の鉄砲隊は火蓋を切り、敵に向かって一斉射撃をくわえました。
輝宗もろともに、です。
このため、義継を含む畠山勢は悉く死に絶えました。
ただ当然、輝宗も無事ではありませんでした。
事態を知った政宗も現場へと急行しますが、到着した時には全てが終わった後だったといいます。