9月20日は吉田松陰の生まれた日。
1830年の今日、明治維新に多大な思想的影響をもたらした思想家が誕生しました。
吉田松陰は正に神童と呼ぶべき並々ならぬ才能を幼少から見せつけます。
松陰は長州藩士の杉百合之介の次男として生まれました。
叔父であり、山鹿流兵学師範であった吉田大助の養子となって同流を学び始めます。
さらに同じく叔父の玉木文之進の松下村塾でも学問を収めるのでした。
そんな英才教育のため、わずか9歳で藩校・明倫館の兵学師範に就任、11歳の頃には藩主である毛利慶親に御前講義をするまでになるのです。
15歳には長沼流兵学も学び、当時の兵学の双璧を収めます。
そもそも子供の頃から父や兄と畑仕事をしながら四書五経(儒教の経典)を素読し、父が音読した頼山陽の詩をあとから兄弟が復唱するなど、ちょっと考えられないレベルのインテリ環境に身を置いていました。
そして20歳頃から、日本各地を遊学して回ります。
九州の平戸で葉山佐内に海防を学び、西洋式兵学の重要性を認識しました。
江戸では豊島権平、安積艮斎から西洋式兵学を学び、師匠となる佐久間象山とも出会っています。
続いて肥後で宮部鼎藏に学び、彼と共に22歳の頃、東北旅行に出かけることになりました。
わざわざ脱藩をしてまでの旅だったのは恐れ入ります。
会津で藩校の日新館を、津軽では津軽海峡を通行する外国船を、そして鉱山、米沢に暮らす人々などを実際にその目で見て見聞を深めました。
その後、江戸に帰着しますが、罪を問われて士族の身分を奪われ、お給料も没収されることになってしまっています。
加えて翌年、日米和親条約締結のため再来したペリー艦隊の旗艦に盗んだ小舟で漕ぎ寄せて渡航を願い出るも拒否され、結果として江戸で投獄されます。
まぁ、なかなかやってることやばいので当然と言えば当然……
危うく死罪になりかけますが助命され、国許蟄居(地元で軟禁生活の刑)に減刑。
こうして長州に帰ってきます。
その後、出獄が許され、実家の杉家で幽閉の身分になりますが、ここでかつて学んだ叔父の松下村塾の名を継いで、同名の私塾を開くこととなるのです。
松陰の思想は20代をかけて変遷を遂げ、天皇を中心とする政治を望むようになりました。
20代の初め頃は、ペリーの浦賀来航をきっかけに西洋文明に感銘を受け、諸侯が一致団結して幕府を助けて外圧に対抗するべしとの思想を持っていました。
しかし幕府が天皇に無断で開国したことに激怒、条約破棄や攘夷実行などの過激な考えに変わっていきました。
自らの考えを容れない藩政にも不満を持ち、当初の考えを改め、天皇を中心とする新しい国体で封建制を打破しようと考え始めます。
倒幕思想の始まりです。
松下村塾に集ったのは久坂玄瑞や高杉晋作、伊藤博文に吉田敏麿など後の長州藩や明治維新に多大な影響を及ぼした人ばかりですが、彼らの考え方の根本に松陰の教えた思想があるのでした。
ただ、安政の大獄で連座した際に、倒幕や攘夷実行といった過激な思想を実行しようとしたことを咎められ死刑の宣告を受けてしまいます。
果たして刑は実行され、吉田松陰は30歳の若さにしてその生涯を終えるのでした。