9月21日 宮沢賢治の忌日

9月21日は宮沢賢治がこの世を去った日。
1933年の今日、信仰と農民生活を謳った一人の作家が旅立ちました。

宮沢賢治 出典:Wikipedia

少年時代の終わりに法華経に出会う

宮沢賢治は明治29年(1896)に岩手県花巻の古着屋の長男として生を受けます。
熱心な浄土真宗の家庭に生まれ、幼少から偈文(仏の教えや徳を讃える詩)の暗唱をするなど仏教に親しんで育ちました。
病弱でよく大病を起こしつつも、鉱物採集や昆虫標本づくりに熱中する少年に成長します。
小学校までは成績が良かったものの、中学では家業の古着屋を嫌い将来に悲観して成績は落ち込みました。
18歳で中学を卒業(当時中学校は5年制)した後は家業の手伝いを露骨に嫌々していたのを父が気にかけ、盛岡高等農林学校への進学を認めます。
宮沢は打って変わって猛勉強に励み、翌年4月に主席での入学を成し遂げるのです。
ただ、この猛勉強の時期に進学以上に宮沢に大きな影響を与える出来事がありました。
それが法華経との出会いです。
「漢和対照 妙法蓮華経」という訳本を読み、身体が震える程の感銘を受けたと言います。
生家の浄土真宗とは宗派が違いますが、敬虔な法華信者となり、以後の彼の創作は法華経に大きな影響を受けるのです。

農林学校時代の宮沢 出典:Wikipedia

30歳での脱サラ、農業家への転身

中学3年生の頃に石川啄木に影響されて短歌を始めた宮沢ですが、盛岡高等農林学校時代にも文芸の活動を続けます。
学友であった保阪嘉内、小菅健吉、河本緑石らと同人誌『アザリア』を刊行し、短歌や短編を寄稿しています。
農林学校では土壌学を専門に研究し、紆余曲折ありましたが24歳で卒業しました。
その後一時実家に戻りますが、法華経への信仰を深め国柱会(法華系宗教団体)に入信し、翌年には家出同然で東京に飛び出し熱心な活動を始めます。
父・政次郎は何度も信仰への固執を見直すよう説得をしますが、結局無駄に終わったそうです。
そんな家出生活でしたが、妹の病気の電報が入ると素直に実家に戻り、一年も経たずに終わりを迎えます。
そして間を置かず、地元の小さな農学校の教諭として就職しました。
この頃に教師の仕事の傍らで、作家として初めて(そして唯一!)原稿料を貰って仕事をし、童話集と詩集を自費出版するなど、精力的に創作に打ち込むのです。
ただ農学校も4年ほどで依願退職、ここにきて宮沢は農業を始め、農家として転身を果たします。
別宅に移住し、周辺を開墾して畑と花壇を設け、野菜づくり・花づくりに精を出しました。
できた作物はリアカーに乗せて売り歩きましたが、当時はリアカーなんて農民に手の出せない高級品だったため、周囲の同業者からは金持ちが道楽で農業をしていると思われていたそうです。

「羅須地人協会」での文化振興活動、しかし…

こうして農村へ根を降ろした宮沢。
間もなく近郷の農学校卒業生や篤農家を集め「羅須地人協会」というものを組織します。
この協会では土壌学を専門に研究していた宮沢が農業・肥料の講習会を行ったほか、レコード鑑賞会(宮沢はかなりのレコードコレクター)に楽団の練習などもしました。
宮沢は世界全体の幸福の末に一個人の幸福があるのだと考え、農民芸術の実践を試みたわけです。
この活動は一定の成果をあげ、岩手日報に

「農村文化の創造に努む!」

との見出しで取り上げられるほどでした。
しかしこれがかえって「社会主義教育をしてるのではないか?」と詮索され、地元警察に取り調べを受ける事態に。
協会の活動は不定期になり、楽団も解散する羽目になります。
おりしも宮沢本人も病に倒れ、実家での療養生活を余儀なくされたため、わずか2年でこの活動は頓挫してしまいました。

羅須地人協会を催した建物 出典:Wikipedia

さらに2年後、宮沢は体調がにわかに回復し、砕石工場の合成肥料部門の技師として再就職。
しかしここでも東奔西走する生活で無理がたたったのか、病が再発します。
三度実家に戻り療養生活を送るものの、1933年の9月21日、体調が急変し喀血。
最後まで法華経と信仰の言葉を口にし、家族に看取られて生涯を終えました。
享年37歳でした。

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