9月23日 立花誾千代の生誕日

9月23日は立花誾千代(たちばな ぎんちよ)が生まれた日。
1569年の今日、戦国でも珍しい来歴を持ち、太閤秀吉にも怯まなかった女城主が誕生しました。

立花誾千代 出典:Wikipedia

戦国でも極めてまれな「女当主」

立花誾千代は豊後の大友家家臣、立花道雪(たちばな どうせつ)の娘として生を受けます。
幼少から美貌に恵まれ、聡明で活発、おまけに配下に対して気配りができるなど、すでに将器が垣間見れる少女でした。
そんな誾千代はなんと7歳にして父・道雪から「正式に」家督を譲られます
道雪は博多にほど近い立花城を領していましたから当然、城から配下から何もかも継承して誾千代は女城主となるのです。
女城主の例が他に無いわけではないですが、跡取りの男子がまだ幼いとか、トラブルにあって男子が全員命を落としたとか、そういう非常時に家督を預かるというのが殆どです。
しかし誾千代の場合は違います。
道雪にとって誾千代は一人娘で、他に男子はいませんでした。
主君・大友宗麟は再三にわたって、親族の男子を養子に迎えよと道雪に言い聞かせていました。
しかし道雪はそれを頑として聞かず、遂に宗麟から許可を得たうえで誾千代に正式な手続きで家督を継承させるのに成功するのです。
こんなことは他に例がなく、さしもの戦国乱世でも異例中の異例と言えるでしょう。

立花道雪 出典:Wikipedia

「西国無双」の立花宗茂を婿に取る

さてそんな誾千代ですが12歳の頃に結婚をします。
お相手は同じく大友家家臣であった高橋紹運の長男・高橋統虎です。
高橋統虎は何度か名前を変えており、立花宗茂(たちばな むねしげ)と呼んだ方が有名でしょう。
道雪はこの宗茂にぞっこん惚れ込み、彼の父である紹運を散々説得して養子に迎えたがりました。
でも紹運は首を縦に振りません。
だって宗茂は紹運にとっても長男なんですもん、当たり前です。
そこをなんとか!と無理に無理を言って口説き落として、遂に婿として迎えたのでした。
ただ、この宗茂も後に豊臣秀吉をして「あの本多忠勝とも並ぶ、西国無双の宗茂」と絶賛されるほどの勇将となるので、道雪の目に狂いは無かったのかも知れません。
誾千代はこの宗茂と夫婦となり、ますます大友家を盛り立てていく、はずでした……

立花宗茂 出典:立花家資料館

没落する大友家、独立する立花家

この頃、かつては九州北部一帯で勢力を誇った大友家の威光にも陰りが見えてきていました。
南九州で台頭した島津氏が猛烈な勢いで勢力を増してきていたからです。
大友は島津に大敗を重ね、ついに豊臣秀吉に救いの手を求めます。
秀吉は大軍を率いて九州に乗り込み、島津を降して九州を平定。
一帯は豊臣勢の武将が拝領する状況となり、大友家も豊後と日向の二国を領するだけにされてしまいました。
ここで立花宗茂は筑後柳河を拝領し、大友の家臣だったのが一転、秀吉の直臣として独立を果たすのです。
誾千代は居城である立花城を去らなければいけなくなりましたが、宗茂と共に柳河へと移りました。
宗茂は秀吉の求めに応じて朝鮮出兵にも出陣し、戦果をあげます。
海を越えて出征していった夫に代わり柳河を守ったのは外ならぬ誾千代でした。
誾千代は薙刀の達人であり、優れた鉄砲の打ち手でもあり、全く男に劣らぬ武芸の持ち主です。
しかも、武家の妻や侍女を訓練して「女子組」という部隊を作って率いたそうです。
ここまで戦える妻が守っていたのだから宗茂にとっても頼りがいがあったことでしょう。

この後、立花家は関ヶ原の戦いで西軍に味方したばかりに没落。
柳河の所領を失い、一時浪人にまで身をやつす羽目になりますが大坂の陣で徳川に味方して旧領の大名に返り咲きます。
関ヶ原の2年後に誾千代は34歳の若さで既に亡くなっていたのですが、言い伝えでは関ヶ原の敗戦直後、「必ずや夫が再びひとかどの侍として輝けますように」と神社に詣でて願掛けをしたそうです。
宗茂が返り咲けたのも、この誾千代の祈りがあったからなのかも知れません。

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