9月27日は竹中半兵衛の生まれた日。
1544年のこの日、黒田官兵衛と共に秀吉の二兵衛と並び称された名軍師が誕生しました。
斎藤氏の家臣として生を受けるが、見限る
竹中半兵衛は美濃の斎藤氏家臣・竹中重元の子として生まれました。
主家の斎藤氏開祖である斎藤道三と、嫡子・義龍が親子で争った長良川の戦いが起こると竹中父子は道三に味方して戦います。
半兵衛にとってはこれが初陣となりましたが、見事に義龍の軍勢を退けました。
ただ、戦いを制した義龍が美濃国主に収まると、元通り仕えます。
ちゃっかりしているねぇ。
その義龍も死去すると、子である龍興に仕えることになりました。
しかし龍興は若年な上に、酒色を好むたちで、いまいち頼りありません。
また近年は尾張の織田信長が毎年のように侵攻してきており、その対応にも追われました。
先代の頃はまだ上手に織田を防げていましたが、龍興には少し荷が重いようです。
半兵衛が用兵を駆使して織田を退けたため、命脈はなんとか保てました。
けれども、龍興の放蕩ぶりは増すばかりで、政務を顧みないばかりか、寵愛した側近のみを近づけ、半兵衛を含む功臣を国政から遠ざけました。
怒った半兵衛は斎藤氏の居城・稲葉山城をわずかな手勢で攻め落とし、龍興を叩き出して、約半年に渡って占拠し続けるのでした。
このことは佞臣を排除すると同時に、油断が滅亡に繋がることを示した半兵衛なりの諫言だったとも言われていますが、真意のほどは定かではありません。
最終的に稲葉山城は再び龍興の手に戻り、半兵衛はかつての所領で隠遁生活をキメ込むのでした。
秀吉との出会い
野に下った半兵衛ですが、間もなく美濃と稲葉山城は信長に攻め落とされ、龍興が追われて斎藤氏は没落します。
主のいなくなった半兵衛は近江の浅井長政の下に移り客将の身分に。
3000貫の禄を与えられますが、1年ほどで辞め、また美濃の旧領に戻って隠遁生活を続けるのでした。
ニート生活が好きなのかも知れないですね。
しかしそんな半兵衛の才能を欲した人間がおりました。
織田信長です。
信長は秀吉に命じて半兵衛の勧誘に赴かせ、半兵衛を召し抱える事に成功しました。
この時の秀吉は三国志の「三顧の礼」の如く、隠者である半兵衛の元を何度も訪れて口説き落としたそうです。
半兵衛も秀吉の才覚を見抜き、信長に仕えるのは拒否するが、秀吉の部下になるなら良いと言ったとか、言わないとか……
そして間もなく姉川の戦いが起こり織田と浅井が激突します。
半兵衛はなにせ1年間浅井の客分として仕えて家臣団とも人脈を築いていたものですから、その伝手をフル活用して調略に励んで貢献しました。
戦いは織田の勝利で終わり、この頃に半兵衛は正式に秀吉の家臣となったそうです。
秀吉と共に中国遠征へ
ぞっこん惚れ込んだ秀吉が総大将として中国攻めを任されます。
半兵衛も当然、秀吉と共にこれに出征することになりました。
ここでも半兵衛は得意の調略を駆使して、宇喜多氏の備前八幡山城を陥落させます。
この功績はかなり大きかったようで、信長も銀子100両を送り労ったほどです。
しかし、まだまだ中国攻めの途上、播磨三木城の包囲戦の時に病に倒れ、間もなく陣中で病没します。
享年36歳でした。
この三年後に本能寺の変が起こり、秀吉は中国攻めを大急ぎで片づけて京都へ向かい、明智光秀を破って織田家中の有力者に躍り出て天下人への階に足をかけます。
もしも半兵衛が存命で、その姿を見ることができたならば、一体何を思ったんでしょうね。
おまけ:伝説や逸話
①
信長を裏切った荒木村重への説得のために向かった黒田官兵衛が敵城に捕らえられ時の事。
連絡が途絶した官兵衛は荒木に寝返ったに違いないと早合点した信長は官兵衛の息子・松寿丸を殺すよう秀吉に命じる。
しかし半兵衛の機転で偽の首を提出させ、松寿丸を自分の領地で匿った。
解放された官兵衛はこのことに痛く感謝したそう。
②
秀吉の三顧の礼の逸話と言い、なにかと三国志の諸葛亮のイメージになぞらえられることが多い半兵衛。
さすがに創作だとみる向きが強いが、三国志ブームは武士たちの間であまりに根強い(例えば近藤勇も熱心な三国志ファン)ため、創作だとしてもなかなか歴史の深い話なのである。
③
細身で色白な見た目が婦人と見まごう程の儚さだという。
稲葉山城を突然攻め落としたのは、日頃この容姿を斎藤龍興はじめ、側近らにからかわれていて、それでプッツンきたためだとか。