10月14日は人類が初めて音速を突破した日。
1947年のこの日、史上初の音速での水平飛行が成し遂げられました。
第二次世界大戦と航空機
第二次世界大戦を通じて航空機の技術は飛躍的に発達し、飛行速度も上昇しました。
当時もっとも一般的に普及してしたのはプロペラを回転させるタイプの飛行機(ゼロ戦とか)で、円熟期には600km/hを超える航空速度をもつ機体もざらに出てきます。
しかしながら、700km/hを超えるあたりからプロペラの先端や翼面を流れる空気の速度など、航空機の周辺の一部が音速に達するようになり、速度が頭打ちになってきます。
なぜなら、音速を超えると急に空気はその性質を変え、衝撃波(ソニックブーム)や機体の異常振動が発生するようになるからです。
無理に速度を上げても空中分解するリスクが高く、とてもまともに仕える代物にはなりません。
そのため、プロペラ機の速度の限界はこの辺りだとされていて、航空機の飛行速度が音速超えなど夢のような話でした。
ただそれもジェット機の発明であながち夢物語ではなくなりました。
ジェット機は戦中に普及こそしませんでしたが、ドイツ軍のMe262をはじめ、すでに実用化されていました。
ベル社とXS-1
まだ戦中であった1942年、アメリカのベル社は米国初のジェット機XP-59を開発します。
さらに、「強力なジェットエンジンさえあれば超音速飛行も可能!」とぶち上げていました。
NACA(NASAの前身)や軍にもこの話は持ちかけていましたが、なにせ戦争真っ最中だったので研究予算は当初なかなか下りませんでした。
本格的な研究が再開されるのは終戦もほど近くなってくる1944年になってからです。
軍は海軍と陸軍でも超音速機開発の方針が割れ、慎重にデータ取りしながら進めたい海軍に対して、陸軍は可及的速やかに要求を満たす機体を欲します。
従って両者それぞれ個別にNACAと協力しながら開発を進めていくことになりました。
陸軍は開発を進めていく中でのパートナーを複数の航空機メーカーから検討しましたが、結局ベル社と手を取り合うことに決めます。
こうして1945年に陸軍とベル社のコラボレーションで生まれた機体がXS-1でした。
XS-1は燃費が恐ろしく悪い代わりに推力に優れたロケットエンジンを搭載。
そのため自力での離陸を諦め、B-29に吊り下げて空まで運んでもらい、空中で発進する仕様となりました。
つまり、離陸能力すらオミットして水平飛行のみに特化した機体というわけです。
こうして超音速航空機開発は軌道に乗り始め、計画は極秘扱いとなり、飛行実験を行う段階に突入したのでした。
チャック・イェーガー大尉、テストパイロットに志願する
XS-1は3機が製造され、機体の安全性のテストが済んでからベル社よりNACAと陸軍に引き渡されました。
ここでも慎重にデータ取りをして開発したいNACAと、すぐにでも超音速機が欲しいで陸軍で方針が割れ、NACAが2号機を、陸軍が1号機を使ってそれぞれに試験を行うことに決まります。
陸軍はテストパイロットを志願者から募り、チャック・イェーガー大尉を抜擢します。
チャック・イェーガー大尉は第二次世界大戦で11機撃墜をマークした、陸軍所属のエースパイロット。
ウェストバージニアの貧しい家庭に生まれ、一兵卒として軍に志願した人です。
航空機の整備士になった後にパイロットの資格を取得して転身、P-51を駆って欧州戦線で活躍しました。
彼は愛機のP-51に「グラマラス グレン」のあだ名をつけており、これは交際していた恋人のグレニス・ディックハウスの名前からつけたものです。
「グラマラス グレン」に乗って一日でドイツの戦闘機を5機も撃墜して称号を受けたこともある、腕の確かなパイロットでした。
音速の壁を超える
こうして1947年の8月に超音速飛行実験は始められました。
エンジンを点火しての初の動力飛行でXS-1とイェーガー大尉はマッハ0.85を記録。
その後10月に入るまでの二ヶ月で延べ49回もの試験飛行がなされ、その間にマッハ0.9を突破できるようになり、49回目のテストではマッハ0.997に迫っていました。
そして来たる10月14日の50回目の試験の日。
イェーガー大尉は「グラマラス グレニス」と自ら名づけたXS-1に乗り込みます。
これは恋人からもう妻になっていたグレニスの名前からつけたものです。
高度6100mで母機のB-29から切り離された「グラマラス グレニス」は4機あるエンジンの二つを点火して緩やかな上昇に移行、残り二つのエンジンを点火して一気に高度10670mに登り詰めるとエンジンの2機を停止、水平飛行に入ります。
そうして停止していたエンジンの一つを再度点火して計3機のエンジンを全開にしての水平飛行へ。
記録した速度は、マッハ1.06。
実験は成功、ここで人類は初めて超音速の世界を手に入れたのです。
当初、音速の壁を超えた先に何があるかは未知でしたが、とてつもない衝撃波が発生するのではないかと予想されていました。
しかし実際に突破してみると心配していた衝撃波の発生はなく、意外なほどあっさりとした突破となったそうです。
後日イェーガー大尉は
「その一瞬静寂に包まれ、自分はもう死んだかと思った」
とその瞬間のことを述懐しています。
音速突破のその後
その後も音速への挑戦は続けられ、翌年3月にはマッハ1.45を記録するなど、さらなる速さへの探求は進められます。
XS-1のスタッフとともにさらなる高み、マッハ2突破を目指す挑戦の始まりです。
しかし1953年11月、全く別のチームがこの偉業を先に達成してしまいました。
イェーガー大尉とスタッフは再び「世界最速の男」に返り咲こうとリベンジを決意。
同年12月にはXS-1の改良機X-1Aでマッハ2.44を記録して再度、最速の栄光を取り戻すのでした。