11月17日は何の日? 本田宗一郎の生誕日

11月17日は本田宗一郎が生まれた日。
1906年の今日、本田技研工業(自動車メーカーのホンダ)の創業者が誕生しました。

本田宗一郎 画像引用元:Wikipedia

前半生、経営者となるまで

本田宗一郎は静岡県磐田郡で生まれました。
生家は鍛冶屋を営んでおり、彼のものづくり精神はもしかすると血筋なのかもしれません。
幼いころから車や飛行機に強い興味を持っていた子供でした。

尋常高等小学校(当時の学校制度で、尋常小学校と高等小学校がひとつになった学校。現在でいうところの、小学校+中学2年生くらいまでの学校)を卒業後、16歳で上京してアート商会という自動車修理工場に丁稚奉公として入って自動車産業の世界に身を置きます。

アート商会に入って半年間は社長の子供の子守をさせられるばかりで仕事らしい仕事はもらえませんでしたが(でも丁稚奉公ってそういうもの!)、次第に仕事を覚え、頭角を現していきます。
ここで自動車の修理・改造の技術をみっちりと叩き込まれました。

6年の精勤の末に、店からのれん分けという形で独立を許されます
社長の榊原郁三から許しを得てのれん分けされたのは宗一郎ただ一人だけだったというのだから、期待の程が伺えますね。

こうして実家にほど近い浜松にアート商会浜松支店を設立して独立、経営者としての道がスタートするのです。

宗一郎の開いたアート商会浜松支店 画像引用元:Wikipedia

自動車製造への道

さてこうして一国一城の主となった宗一郎ですが、経営手腕も一人前でした。
アート商会浜松支店は順調に拡大を続け、従業員数も増えて、会社組織として申し分ない規模にまで成長します。

ただ、アート商会は自動車の修理業、宗一郎は修理だけに飽き足らず、みずから車を作り出す、製造業への道を模索し始めます

しかしこれに出資者たちはいい顔をしません。
すでに修理業で儲かっているのだから余計なことはするな、というわけです。
それでも宗一郎は諦めず、知人の後援を得て東海精機重工業という新会社を設立します。

ここでエンジン製造に欠かせない重要部品ピストンリングの研究に没頭しました。
こうして昼はアート商会、夜はピストンリングの研究という二重の生活が幕を開けるのです。

しかしながら、ピストンリングやエンジン部品の開発には冶金技術の知識が不可欠で、宗一郎はこれまで培った経験や勘ではどうにもならない学問的な壁に突き当たります

そこで浜松江東工業学校(現在の静岡大学工学部)の聴講生になり、実に3年間もの歳月を金属工学の研究に費やすのです。
自動車作りに傾ける情熱は並大抵のものではなく、この頃は人相が変わる程に苦労を重ねて熱心に研究に打ち込んだそう。

程なく、アート商会浜松支店の経営も弟子である川島末男に譲渡し、東海精機重工業の経営と研究に専念することにしました。

かくしてピストンリングの生産は開始され、メーカーとしての第一歩を歩み始めることに成功。
当初は目も当てられないほどの不良品率でしたが徐々に改善していき、トヨタや中島飛行機との契約をとれるほどのメーカーに成長を遂げていきます。

ピストンリング。エンジンのピストンとシリンダーの間で潤滑や気密維持を担う 画像引用元:Wikipedia

太平洋戦争勃発

順調に見えた宗一郎の再スタートですが、折しも太平洋戦争が勃発してしまいます。
東海精機重工業も軍需省の管轄下に置かれるようになり、これまでほど自由にものづくりを行うのは難しい世相となってきました。

しかも、取引先であるトヨタ自動車の出資を受けることとなり、株式の4割を握られてしまいました。
ここで宗一郎は社長から専務へと降格の憂き目に会うのです。

熟練の男性工員たちは徴兵で次々と戦地へ行ってしまい、製造を担うのは女子挺身隊と呼ばれる寄せ集めの一般女性や女学生たちが多く占めるようになってきます。

製造・研究の面から言えば逆風ではありましたが、宗一郎はそんな不慣れな女性工員たちが安全に、簡単に作業できるように工夫を重ね、自動化されたピストンリング製造機の考案をするなど、エンジニア魂は潰えていませんでした。

しかし戦火は日本本土にも及ぶようになり、空襲によって工場は破壊され、終戦直前の1945年1月には磐田工場が三河自身で倒壊。
ここで東海精機重工業の所有株式を全てトヨタに売却して退社し、「人間休業」と称して1年間の休養にはいりました。
そして同年8月、日本は終戦を迎えました。

女子挺身隊 画像引用元:Wikipedia

諦めぬメーカーとしての道 再起

こうして終戦を迎えるまでアート商会支店長、東海精機重工業社長、どちらも退いていた宗一郎。
それでも自動車作りの道は諦めているわけではありませんでした。

終戦の翌年、39歳の宗一郎は浜松市に本田技術研究所を設立し、ふたたび夢を追いかけ始めたのです。
資本金は100万円、従業員は20人。
かつて従業員数2000人を超えた会社を率いていたことを思うと、それの100分の1の規模です。

戦後の焼け野原で、自転車で買い物にいく妻の負担が少しでも楽になるものはないかという思いから原動機付自転車の構想に思い至り、エンジン、自動2輪の研究開発を当初は行いました。

陸軍払い下げの無線用エンジンを転用するなどして原付用のエンジン開発に工夫を重ね、艱難辛苦の末にホンダA型という原付を発売します。
結果としてこれは初のヒット商品となり、大成功を収めます。

ホンダA型がヒットした翌年、新たに本田技研工業を浜松に設立して、本田技術研究所は発展的解消。
この本田技研工業こそ、こんにちホンダの通称で知られる、日本を代表する自動車メーカーなのです。

ホンダA型 画像引用元:webオートバイ

優れた経営者であると同時に、宗一郎はエンジニアである誇りを最後まで大切にした人でした。
その飽くなき情熱と探求心、技術や製品に真摯に向き合う姿勢が、後のホンダの雄飛を支えたのかもしれません。

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