11月18日はミッキーマウスの誕生日。
1928年のこの日、世界的スターとなる一匹のネズミが銀幕デビューを果たしました。
ミッキーマウス誕生前夜
誕生日が決められているキャラクターは今ではありふれていますが、あくまでただの設定として以上の意味を持たないものも多いです。
しかしミッキーマウスには11月18日が誕生日と定められている、とある由来があります。
それはミッキー誕生以前まで話がさかのぼります。
ミッキーマウスの生みの親といえば、ウォルト・ディズニーですが、彼はミッキーを生み出す以前、「オズワルド・ザ・ラッキー・ラビット」というキャラクターのアニメ制作に携わっていました。
1920年代始め頃にアニメ制作スタジオ「ディズニー・ブラザース・カートゥーン・スタジオ」を設立したウォルト。
1927年にチャールズ・ミンツという興行師の紹介で、映画制作・配給会社であるユニバーサルスタジオとのつながりを得て、同社の配給で「オズワルド・ザ・ラッキー・ラビット」のアニメ制作を始めました。
オズワルドはシリーズ2作目の『トロリー・トラブル』から(1作目は未公開なので実質的な最初の作品)子供たちを中心に大人気となり、ヒット作を連発します。
オズワルドの大ヒットはディズニー社を急成長させ、アメリカ屈指のアニメ制作会社にまで押し上げていきました。
約1年の間に22ものオズワルド・シリーズの作品を世に送り出します。
しかし、ユニバーサルから支払われる報酬はいつまでも制作当初の安い金額のままでした、オズワルドがもたらす利益が莫大なものにも関わらずです。
ウォルトは製作費値上げの交渉をするため、ユニバーサルを訪れますが、帰ってきた返事は予想だにしないものでした。
「製作費の値上げには応じられない」
「オズワルドの権利はユニバーサルとチャールズ・ミンツにあるため勝手な制作は認めない」
「むしろ製作費を下げろ、さもなければディズニー社のアニメーターを引き抜く」
という極めて高飛車なものだったのです。
オズワルドはディズニーの自社キャラクターではありましたが、契約上はユニバーサルの管理下に置かれていたのがディズニーが持っている弱みでした。
そこに付け込まれた形です。
ウォルトもこれには応じられないと拒否すると、交渉は決裂。
ミンツによって秘密裏にアニメーターの引き抜きが行われ、主だった面子は皆ディズニーを去ります。
ある日ウォルトがスタジオに出勤すると、空席だらけになっていたそうです。
残ったアニメーターはスタジオ創業期以前からの付き合いで、引き抜きを断ってまで残ったアブ・アイワークスと、彼の助手2人の計3人。
ユニバーサルとの契約上、あと4作のオズワルド・シリーズの制作をしなければならない中でディズニー社は、主要配給会社、熟練のアニメーター、そして看板だった自社キャラの全てを失い倒産寸前にまで追い込まれます。
残ったメンバーで昼は残りのオズワルド作品の制作、夜はオズワルドに代わるキャラクターの企画をする生活が始まりました。
逆境の中、ミッキーマウス誕生
かなりのピンチに追い込まれたディズニー社スタジオの面々ですが、やはりオズワルドのようなキャッチーなキャラクターは必須だと考えます。
そこでウォルトはオズワルドシリーズや、それ以前の作品でたびたび登場させていた敵役のネズミをスピンアウトさせようと考えます。
こうしたウォルトのアイデアを汲んで、アニメーションとして動かすことを念頭にしたデザインをアイワークスが起こし、後の「ミッキーマウス」が誕生するのです。
そのため「ミッキーの動きはアイワークスが、魂はウォルトが生み出した」と語られます。
こうして生み出されたミッキーマウスでしたが、彼の売り込みに当初は難航しました。
ミッキーを主役にした第1作目『プレーン・クレイジー』、続く第2作目『ギャロッピン・ガウチョ』は配給会社に恵まれず、まったく相手にされませんでした。
この当時、映画の主流はサイレント(劇中に台詞やBGMなどの音声がない作品)であり、この2作品も当然サイレントで制作されていました。
しかし1927年に世界初のトーキー映画(現在一般的な音のある作品)である『ジャズ・シンガー』が公開されて驚異的な興行収入を叩き出すと、ウォルトはトーキー映画が将来主流派になると確信。
そのアイデアを入れてミッキーの3作目はトーキーにすることにしました。
そしてきたる1928年11月18日、満を持して第3作目『蒸気船ウィリー』が公開されます。
冒頭から軽快なBGMと共に現れる一隻の蒸気船。
蒸気機関がうなりながら煙突は黒煙を上げ、船は汽笛を鳴らす。
そして小躍りしながらご機嫌に操舵桿をにぎるネズミのキャラクターが軽やかに口笛を吹く。
見た事もないアニメ映画に、公開されたブロードウェイは湧き、ミッキーマウスの名を世間に轟かせました。
こうして大成功を収めたミッキーマウスの銀幕デビュー。
蒸気船ウィリーの公開日である11月18日は後年、ミッキーマウスの誕生日という認識が出来上がるのです。
その後のミッキーマウスとオズワルド
トーキーのアニメ映画は結果として大成功を収めました。
蒸気船ウィリーも当初はサイレント映画を念頭に作られていた作品でしたが、それを後からトーキーに改造してまで作り上げたものなので、ウォルトの先見の明が光った形になります。
その後、配給先が見つからず日の目を見ていなかった第1作目、2作目もそれぞれトーキー映画に作り直して一般公開にこぎつけます。
ミッキーの人気はかつてのオズワルドをしのぐものとなりました。
さて、片やディズニー社のアニメーターを引き抜いてユニバーサルで製作が続いていたオズワルド・ザ・ラッキー・ラビットですが、こちらは迷走します。
皮肉にもミッキーの快進撃に当てられてかつてのようなヒットは出せなくなっていました。
ウォルトの後に就いたプロデューサーも交代させられ、ユニバーサル主導の体制に代わりさらに新たなプロデューサーが制作を行います。
ここにきて、オズワルドのデザインをミッキーに寄せていく変更を行うのです。
ただ、この変更がこれまでのファンや観客からは不評で、人気にいよいよ陰りが見えてきます。
ユニバーサルはこの10年以上後の『ウッディ・ウッドペッカー』の登場までアニメ作品でヒット作を出せないなど、手痛いしっぺ返しを食らいました。
なお、大きく時代は流れて2006年に、ディズニー傘下放送局のスポーツ実況アナウンサーであるアル・マイケルズを、ユニバーサル参加放送局に移籍させることと引き換えにユニバーサルからウォルトが携わった26のオズワルド作品全ての奪還に成功します。
こうして現在はオズワルドもディズニーキャラクターに数えられるようになりました。
余談
①
蒸気船ウィリーではミッキーの恋人・ミニーマウスも登場しているので、彼女の誕生日も11月18日。
②
新しいネズミのキャラクターの名前を当初は「モーティマー」にしようとウォルトは考えていた。
しかし、妻の鶴の一声で「ミッキー」に決まった。
なお、後にミッキーの恋敵でミニーの幼馴染のキャラである「モーティマーマウス」が登場する。
③
ディズニーは著作権に大変厳しいというのは、時に面白おかしく語られることもあるが、オズワルドの件で手痛い目にあっているウォルトは権利関係にとてもセンシティブだったためという。
※今回ブログに掲載したキャラクターの画像は全てパブリックドメインです。