10月19日は何の日? ジョン王の忌日

10月19日はジョン王がこの世を去った日。
1216年のこの日、「失地王」の名で有名な王様がその生涯を終えました。

ジョン王 画像引用元:Wikipedia

出生

ジョン王はイングランド、プランタジネット朝の第3代の王です。
父は初代の王・ヘンリ2世で、8人の兄姉の5男として生を受けます。
8人中、男子は5人だったのでジョンは末弟ということになりますね。

父王ヘンリ2世は元はフランスに領地を持つ貴族でしたが、イングランドのノルマン朝が滅ぶとその血筋から王位継承権を主張して即位を勝ち取った王です。

そのため、プランタジネット朝の王家はイングランドのみならずフランスにも広大な領地を持っているという、そんな状況でした。

ヘンリ2世は末っ子であるジョンを特にかわいがっていました。
しかし、自分の領地を息子たちに相続させる時、ジョンはまだ2歳であったため彼を除いた3人の兄達(次男ヘンリー、三男リチャード、四男ジェフリー。なお長男ウィリアムは夭折している)に全て相続させてしまいます。

そのためジョンは年が長じても相続する土地は無く、父は

「この子はラックランド(領地無し)か……」

と憐れんだといいます。
そのためジョン王は失地王とよばれるわけです。

しかしこれがジョンのヘタレ人生を物語る盛大なネタ振りになっているとはまだ誰も知る由もないのでした。

ヘンリ2世 画像引用元:Wikipedia

父を裏切る

ヘンリ2世は息子たちへの愛を持つ男でした。
しかし妻を始めとして息子たち全員に背かれ、家族仲はよくありません

後継者と定めて溺愛していた次男ヘンリーは様々な不満(なかなか父が実権を渡してくれない、恩人を殺害された等々…)から父を嫌っており、二人の弟、リチャードとジェフリーを誘って反乱を起こします。

この時の反乱は一度は和解に至りますが、ヘンリーが若くして没すると、今度はリチャードが主導して再度反乱が起こりました。

この二度の反乱のどちらも、兄弟たちの領地の一部をまだ幼いジョンに分けようとする意向をヘンリ2世が示したことをきっかけとしています。
領地が無いことも、兄弟の領地を与えられようとすることも、ジョン自身が悪いわけではないですが、意図せず彼の存在が波乱の火種となっていました。

このリチャードの反乱でジョンは当初は父に味方していたのですが、兄・リチャードの勝利がほぼ確定すると、なんと父を裏切って寝返ります

ケガで片足が不自由になり生来の肥満が進行していて、すでに健康を害していた上に戦況の思わしくないヘンリ2世。
あるとき寝返った者のリストの筆頭に最愛のジョンの名前が書かれていることに大変ショックを受けます。

結局ヘンリ2世はこれが決定打になってみるみる気力を失い間もなく崩御してしまいます。

兄・ヘンリー 画像引用元:Wikipedia

今度は兄を裏切る

ヘンリ2世の崩御により、三男のリチャードが王位に就き、リチャード1世となります。

リチャード1世は十字軍遠征で活躍し、「獅子心王」の名で知られる勇敢な王です。

ただ、リチャード1世は十字軍遠征に熱中するあまり、常に外征していてイングランドをほとんど不在にしていました。

これをイングランドの勢力を削ぐ好機だと見たフランス王のフィリップ2世はジョンに甘い誘いを送ります。

「私が支援するから、兄から王位を簒奪しなさい」 と。

すっかりその気になったジョンは簒奪の準備を進めますが、陰謀はすぐに遠征先のリチャード1世にも知られるところとなり、兄は急いで帰国の途に着きます。

しかし途中ドイツでオーストリア公レオポルト5世に捕まり幽閉の身になってしまい、帰国の目途が立ちません。
ジョンとっては好機と言うほかありませんね。

ジョンは捕まったリチャード1世は戦死したものと早合点して即位の意向を示しますが、諸侯の誰も彼を指示する者はおらず、断念するのです。

しかも兄はまだ生きていました。
身代金を払って解放され、イングランドに急行しています。

しかもジョンに対して

気を付けろ、悪魔が既に解き放たれた

と恐ろしい手紙を送り付けたといいます。

そして帰国した兄に対してジョンはにわかに抵抗しましたが、まったく敵わずすぐに屈服し、野望は潰えました。

「獅子心王」リチャード1世 画像引用元:Wikipedia

これがほんとの「失地王」

さて、そんなジョンですが、結果として王位に就くことには成功します。
ジョンを鎮圧した後、リチャード1世はまた転戦の日々を送り、戦死したからです。

四男ジェフリーの息子のアーサーが一時は最有力候補ではあったのですが、親フランスの気が強かったため、ジョンが支持されて王位に就きました。

そして間もなくジョンは離婚をして、既に婚約者がいた女性と再婚します。
この再婚した女性の元婚約者はフランスの貴族で、この事をフランス王・フィリップ2世に訴えました。

父、兄から継承したフランスの領地を持っているジョンはイングランド王であると同時にフランスの貴族でもあります。
つまりフランスにおいてはフィリップ2世の臣下です。

フィリップ2世は法廷にジョンを呼び出しますが、ジョンは拒絶。
これをきっかけにしてフランスを舞台にしてジョン VS フィリップ2世の戦争が開始されます。

しかし、ジョンはフランスにおいての人望を完全に失っており、反旗を翻す諸侯が続発。
フランスの攻撃を前にしてノルマンディー、メーヌ、トゥレーヌ、ポワティー、そして家門発祥の地であるアンジューまでもがほとんど抵抗することなく降参しています。

こうしてジョンは父祖伝来のフランスの領地のほとんどを失ってしまうのでした。

フィリップ2世(画像中央) 画像引用元:Wikipedia

まだまだあるぞジョンの失策

その後もジョンは叩かれまくりの人生を送ります。

聖職者の叙任に関してローマ教皇インノケンティウス3世と対立。
よせばいいのに教皇支持派の国内の司教たちを追放したうえに教会領を没収します。

これに対する制裁でインノケンティウス3世はジョンを破門
加えてフランスのイングランド侵攻を支持したため、慌てて許しを請い、領地を寄進して、毎年1000マルクを収めることを約束して破門を解かれます。

インノケンティウス3世 画像引用元:Wikipedia

また、ジョンは大陸領土回復を諦めておらず、海軍力強化に注力。
そのためかなりの重税をかけて諸侯や庶民たちからの不満は高まりますが、それを押してでも悲願の成就に邁進するのです。

そしてフランスを相手に戦われたブーヴューヌの戦い。
一時ポワチエとアンジューを回復する快挙をあげますが、すぐに巻き返されて惨敗、作戦は失敗に終わります。

しかしジョンの本当の恐怖はその後でした。

イングランドに帰還した彼を待っていたのは重税を課された上に、何の戦果も無く帰ってきた王に怒り心頭の国内諸侯たちです。

ジョンは強権的に押さえつけようとしますが諸侯は団結して反発、王を見限る者は多く、たちまちロンドンは制圧されてしまいました。

ジョンは大憲章(マグナ=カルタ)を突き付けられて渋々承諾。
徴税権を制限され、法の支配を受けることとなってしまいます。

けれども、一度は承諾した大憲章を、後になって不服としてインノケンティウス3世に頼んで無効宣言をしてもらいました。
こうしてまた圧政を敷いたジョンですが、当然ながら諸侯は反乱を起こします。

イングランドは内乱状態に陥り、この戦乱さなか、ジョンは赤痢にかかり、間もなく病没してしまうのでした。

こうして50年の生涯に幕を下ろすのです。

きれいなジョン王 画像引用元:Wikipedia

ヨーロッパの王様というのは大抵、「○○3世」とかの数字がつきます。
後世、同じ名前のついた王が現れた場合、初代の人間は「○○1世」です。
しかしジョンは「ジョン王」です。
後世ジョンを名乗る王が現れなかったということですね。

そのため彼は

「ジョン1世になれなかった男」

などと俗に言われたりします。

しかし彼が無理やり承諾させられたマグナ=カルタは限定的ながら民主主義と憲法の理念を備えており、後世それが発展して現在の民主主義があります。

もしも彼がいなければ民主主義の登場は数百年遅れていたかも知れないと考えるとある意味、世界の在り方を大きく変えた人物なのかも知れません。

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