10月15日はマタ・ハリが処刑されてこの世を去った日。
1917年のこの日、後世に女スパイの代名詞的存在となる一人の踊り子がフランスの刑場で一生を終えました。
妖艶なる踊り子、前半生
マタ・ハリはその美貌で束の間の栄華を手に入れ、しかしその栄華ゆえに悲劇的な最期を遂げた女性です。
本名をマルハレータ・ヘールトロイダ・ゼレといい、オランダで生を受けます。
石油投資ビジネスで成功を収めた両親の下で四人兄弟の長女として何不自由ない暮らしを送りました。
しかし、13歳の頃に父のビジネスが失敗、資金繰りを自転車操業でまかなうなどしてゼレ家の借金はみるみる増えてゆきます。
そしてついに両親は離婚、兄弟たちも全員別々の親戚に引き取られていき、文字通り一家離散の状態になってしまいました。
まだ10代の初めにして彼女の人生は暗転します。
生活再建を目指すも上手くいかず、親戚の家を渡り歩き、19歳の頃にオランダ人将校の男性と結婚。
一男一女をもうけますが、息子は早くに亡くしました。
もともと愛のある結婚でもなかったため夫との折り合いも悪く、7年ほどの結婚生活は夫からの一方的な離縁の宣告で終わりを迎えます。
娘の親権も夫に取られてしまい、マルハレータはまたひとりぼっちになってしまいました。
再起をかけたフランス渡航にて
再び生活再建の必要に迫られたマルハレータは20代半ばを過ぎた頃、職を求めてオランダを飛び出しフランスに渡ります。
しかしそこでもまともな仕事にはありつけず、苦しい生活を余儀なくされました。
そんな折、友人に招かれたパーティに参加した時の事、彼女は余興を披露します。
演じたのは見よう見まねでやってみたジャワ舞踊。
マルハレータは軍人であった元夫の仕事に連れ立ってボルネオ、ジャワなどを訪れたことがあるため、その時に見てなんとなく覚えていたのでしょう。
これが意外なほどウケて、なんとダンサーとしてデビューしないかという話まで舞い込んできたのです。
彼女のエキゾチックな容姿が見事にアジアンテイストの舞踊にはまって好評を博したのでしょう。
仕事を求めていた彼女がこのオファーを快諾したのは想像に難くありません。
フランスでダンサーとしてデビュー
マルハレータはその容姿に見合うよう東洋風のマタ・ハリという芸名で活動を開始。
「インド寺院の踊り子」、「ジャワ島からやってきた王女」との触れ込みでアジアンテイストの舞踊を持ち味としました。
欧州人のイメージするオリエンタルな雰囲気に見事にハマり、「アジアの踊り子マタ・ハリ」は一躍人気の踊り子となります。
なお、彼女の容姿は偶然そういう見た目だというだけで、少なくとも近い先祖にアジア人はいないそうです。
妖艶な衣装を身に着けて踊ることも多かった美貌のマタ・ハリを男たちが放っておくわけもなく、彼女はその後に多くのフランス人やドイツ人の将校と一夜を共にします。
それはもう、数えきれないくらい大勢だそうです。
それに伴って彼女の存在自体が国際的な陰謀のパイプとなりつつありました。
1910年代の欧州と世界大戦とマタ・ハリ
1905年、29歳の頃にダンサーとしてデビューして多くの将校と浮名を流したマタ・ハリ。
華やかな生活をおくること10年弱、ただこの時の世界情勢はある大きなイベントに振り回されていました。
第一次世界大戦です。
1914年に起こったサラエボ事件を決定的な契機として始まってしまった人類最初の総力戦。
ドイツ・オーストリアを中心とした同盟国と、イギリス・フランス・ロシアを中心とした協商国の二つの陣営で争われました。
開戦から三年が経った1917年のこと、マタ・ハリは突如としてフランスから「多くのフランス人とドイツ人兵士を死に至らしめた」という旨で起訴されてしまいます。
これはつまるところ「スパイ罪」で逮捕されたようなものでした。
マタ・ハリはその美貌を活かしてフランス人ともドイツ人とも、多くの将校と親密な夜を過ごしました。
その中で彼女はいわば二重スパイのような動きをするのです。
これは事実であり、たしかにフランス側のスパイのような動きをしつつ、ドイツにもフランスの情報を渡していたようです。
しかし、まともな教育を受けたのは13歳までで、それ以降は生活に困窮し高等教育すら受けていないマタ・ハリが、専門的な諜報員のスキルなど持っているはずがありません。
そのため彼女がもたらした情報は独・仏の双方にとってそれほど有意義なものではなく、低質なものが多かったといいます。
目の前の報酬欲しさに無節操に振る舞っていたというのが実態には近そうです。
ただ、フランスはこれを非常に重く受け止めてマタ・ハリを訴え、そして死刑を宣告します。
これには当時置かれていたフランスの事情が大きく関わっているとされます。
第一次世界大戦はドイツを降してフランスが所属していた協商国側の勝利で終わりました。
しかしそこに至るまでフランスは甚大な被害を被っています。
中にはフランスの首脳部の失策を原因とするものも少なくない状況で国民の政府への不満は頂点に達していたそうです。
フランス政府にとってそのガス抜きは急務でした。
したがってそれあらゆる軍事的な失敗を「マタ・ハリが情報をドイツに渡したからだ!」ということにしてしまうのは非常に都合がいいのです。
かつてスターのように扱われたマタ・ハリをフランス、ドイツの国民、果てはマスコミまでも売国奴として非難し、庇う者はいませんでした。
そして来たる1917年の10月15日、マタ・ハリことマルハレータはサランザール刑務所で銃殺刑に処されました。
彼女の最期は堂々としたもので、粛々と刑に処されてその人生に幕を下ろすのでした。
そしてこの翌年の11月、第一次世界大戦もまた終結するのです。