11月14日はロバート・フルトンが生まれた日。
1765年のこの日、画期的な船を生み出した発明家が誕生しました。
前半生、発明家になるまで
ロバート・フルトンは蒸気船を発明したことが最も有名なアメリカ人発明家ですが、少し変わった来歴を持っています。
フルトンはペンシルバニア州ランカスターで生まれ、元は肖像画家を営んでいました。
23歳の頃、画家としての修行のためにイギリスへ渡り、ベンジャミン・ウェストに師事します。
ベンジャミン・ウェストはイギリスで活動した新古典主義の画家です。
ルネサンス期を彷彿とさせる古典的な歴史画を多く作り、肖像画家としても活躍しました。
フルトンの他にも著名な画家が多く彼に師事しており、偉大な先生に学んだわけです。
ただ、折しも18世紀後半のイギリスは産業革命の真っただ中であり、新しいテクノロジー、新しい社会のあり方が模索されている時期でした。
そんな環境のためでしょうか、しだいにフルトンの興味は絵画から産業技術の方に移っていきます。
彼の描く風景画と肖像画は地元で高い評価を得て、イギリスでも一定の評価は得ましたが、大成するほどの画才はなかったようです。
ついにフルトンは29歳で筆を折り、技術者・発明家として転身します。
発明家フルトン誕生、しかし…
こうして技術開発を志すようになったフルトン、この発明家としてのキャリアの初期から蒸気船のアイデアは温めていたそうです。
蒸気船の構想を練るかたわらで、運河の水位をコントロールする機構、大理石切断用鋸に関してイギリスでの特許を得ます。
しかし、肝心の蒸気船の開発は英国では受け入れられませんでした。
そして32歳の頃、英雄・ナポレオンの快進撃に湧くフランスへ渡り、自身の設計の売り込みを始めます。
フランス在住中になんとフルトンは世界初の手動式潜水艦を設計し、フランス政府に提案しました。
フランスは当時イギリスと戦争をしていましたが、その対英戦線で使う秘密兵器として潜水艦をアピールするのです。
潜水艦ならばイギリスの艦船の死角である海中から敵船に近づけ、秘密裏に爆薬をしかけて大打撃を与えられるとブチ上げました。
しかし、皇帝・ナポレオンはこの戦い方は卑怯であり不名誉だとみなして建造の補助金を得ることはできませんでした。
それでも粘り強い売り込みを続けた結果、海軍大臣から建造の許可を得て、遂に潜水艦を建造して、実際に運用するところまでこぎつけたというのだから、フルトンの交渉力には目を見張るものがあります。
ただ折角の機会ではありましたが、彼の鈍足な潜水艦ではいとも簡単にイギリス艦船にかわされてしまい、想定していた運用をこなすのは無理だと判明しただけでした。
また、駐仏米国大使のロバート・リビングストンの援助を受けて蒸気船を作り上げましたが、これもまたフランスでは受け入れられませんでした。
その後、再びイギリスへと戻り、同様の売り込みを行いますが、こちらも同様に結果は振るいません。
発明を作り上げられるだけの技術力、実行力が備わっているのに、はがゆい日々を送りました。
出戻りのアメリカで再起
こうしてイギリス、フランスで発明家としてのキャリアをスタートさせるも宿願である蒸気船の売り込みはうまくいきませんでした。
41歳の頃に母国アメリカへ帰国します。
ただ、フルトンの英仏での生活は無為に過ごしたわけではなく、しっかりと潜水艦も蒸気船も作り上げた有意義な期間でした。
しかも後にビジネスパートナーとなるロバート・リビングストンの知己を得られたのは何にも代えがたい成果だったことでしょう。
フルトンは帰米して早々にリビングストンの援助を得て新たな蒸気船を完成させます。
船長42m、船幅4.3m、20馬力の出力を得られる蒸気機関を搭載したこの船は「ノース・リバー・スティームボート・オブ・クラーモント」と名づけられ、通称として「クラーモント」と呼ばれました。
クラーモントはリビングストンが所有した土地の名前だそうです。
この船を使ってハドソン川を遡って走る試運転を行う運びとなりましたが、人々の目は冷ややかでした。
なぜならこの当時、まともに動く蒸気船は皆無だったからです。
彼の試みは「フルトンの愚行」とさえ呼ばれ、誰もが無理だと考えました。
そしてアメリカへの帰国の翌年、1807年の8月17日のこと、ニューヨークを出発してハドソン川を遡上する実験が始まります。
始動の直後に、船を推進させる、船体左右の外輪が突然止まる不具合が起こるものの、修理して間もなく再始動。
船の様々な駆動音がやかましいのを除けば、招待客たちは快適な船旅を楽しんだといいます。
丸々24時間後の翌18日、チェックポイントであるクラーモントに無事に到着、すぐにゴールであるオールバニに向けて出発します。
そしてニューヨークの出発から32時間後、150マイルの航路を逆風にも関わらず踏破して無事にオールバニへの到着を果たします。
当時、ニューヨーク‐オールバニ間は、帆船による航行で通常4日間の行程。
快速船が好条件な風を受けて帆走して16時間で行けることを考えると、試運転の結果は驚くほど早いというものではありませんでした。
しかし無風でも、逆風に吹かれても、それほど大きな影響がなく、安定して30時間程度で片道を航行できる船は画期的です。
この実験での成功から間を置かず、すぐにクラーモント船内の宿泊設備を整えて、なんと2週間後に蒸気船の定期便運航を始めてしまいました。
土曜日にニューヨーク発、水曜日オールバニー発の週1往復の営業でした。
フランスでもイギリスでも認められなかった発明でしたが、母国アメリカで大きな成功を掴んだのでした。
この後、リビングストンの助力もあり、ハドソン川だけでなく、ニューヨーク州の河川運送の独占免許をフルトンは取得。
発明力、開発力も並外れていますが、最後にこうして事業としての成功までつかみ取る才能にもフルトンは恵まれていたことになりますね。